文脈から切り取られた言葉
スティーブ・ジョブズが2005年スタンフォード大学で行ったスピーチについてはご存知の方も多いだろう。感動的だ、という声が多い。私はたいして感動を思えないが、それでも学ぶべきことが多い。すぐ目の前の便益だけのために学習すること以外の学習がいつか役に立つ可能性がある、という話は面白い。多くはそれは哲学とか芸術の類のことが多いのでが、ジョブズのケースも例外ではない。
間違った引用、そして解釈
さてそんなジョブスのスピーチについてだが、インターネット上ではこんな引用をよく見る。「スティーブ・ジョブスは、人間いつ死ぬかは分からないから常に後悔しないように生きよう、明日死んでもいいように毎日を生きること、と言っている」と言った類のものである。ジョブズはそんなことは一言もいっていない。彼が言ってるのは「今日が人生最後の日と考えて生きれば、いつの日か確かにそうなる。」、「今日が人生最後の日だったら、今日これからやることを本当にやりたいか?」ということだ。要するにかれは今日が人生の最後の日である、という過程を自分の人生が自分の望むような生き方であるかの判断のツールとして使え、と言っているだけである。
何故間違った解釈が生まれるのか
このような間違った解釈が起こる原因の一つが、マハトマ・ガンジーの有名な言葉
明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。
にあるだろう。この前半の部分だけが独り歩きして後半は置き去りにされている。まず長期的な視点に立ち、それに向かって日々最善を尽くす、それがガンジーの意図するところだ。単に「 明日死ぬかのように生きよ。」では長い目で見れば後悔するような短期的視点にたった行動をするという間違いを犯しかねないではないか。
言葉は文脈の中でこそ意味を持つ
ジョブズのスピーチ関して言えば、彼のスピーチ全体の文脈も関係している。ジョブズはまず学習することの重要性、しかも哲学や芸術のような役にたつかどうか分からない学問の重要性を説いている、さらに自分の人生において自分の信念をもつこと、やりがいのある仕事を持つことの重要性を説いている。その文脈の中での「今日が人生最後の日だったら」と仮定である。彼があくまでも人生を俯瞰した自分の信念に基づいた考えのもとで、今日一日最大限の努力をしよう、といっていることは明らかである。ガンジーの「永遠に生きるかのように学べ。」が根底にあることとと実によく似通っているではないか。
全体の文脈を通せば「 本当の学習を通し、逆境にあって信念と愛を持ち、今日が人生最後のように信念と愛のもとに生きよ。」とでも言えようか。
文脈から切り離された言葉の不毛さ
昨今のインターネットでの文脈から切り離した一部の言葉が、不正確な記述のまま間違った解釈のまま独り歩きする、このような現状はどうにかならないものか、といつも思うのである。
セルフイメージを持とう
皆さんは自分が本当になりたい自分、というものを考えたことがあるだろうか。今を生きるのに精いっぱい、そういう人がほとんどかもしれない。私自身日常生活においては、経済的理由から好きでもない仕事をしたり、止めたくても止められないことをだらだらと続けている、ということが多々あります。
しかし現状を変えたい、という気持ちが少しでもあるならば「なりたい自分」を考え、未来の自分を想像してみることが必要でしょう。なれるわけないから無駄、そう考えるもの無理はないことかもしれませんが、夢を実現した人だって最初はそうだったのです。皆最初は同じスタートラインだったはずです。まだスタートもしていない時点であきらめるのはまだ早いでしょう。そして生きてる限り再スタートはいつでもできるのです。
まずはセルフイメージを作る
まずはこうなりたい自分、セルフイメージを作ることだと思います。セルフイメージと今の自分とはかなりの差があることでしょう。その差を意識することがまず第一歩です。その差に愕然とすることも仕方ありません。でも大丈夫、まずはそのセルフイメージまでの道のりを細かく分割すればいいのです。叶えられるいくつかのポイントに分けるのです。ある人は100といいます。また1000という人もいます。とにかく達成できそうな小さな目標を数多く設定することです。そして少しずつ前に進むことが大切です。
一歩前に出る
一歩ずつ進み続けるにはある程度のモチベーションが必要になります。達成したごとに自分のご褒美を上げるのもいいでしょう。一番効果があるのはセルフイメージ通りの人間になったときの自分の姿、ビジョンを描くことです。その日一日どういう過ごし方をしているのか、それを想像することです。たまには休日にでもそれをシミュレーションするのもいいでしょう。私の場合、美意識や教養の大切さを知らしめる伝道師のような姿をセルフイメージとして持っていますので、朝から美術館に出掛け、昼は少々高価なランチを食べ、都内の高級ブランド店を覗き目利きの高い店員さんと軽く言葉を交わし、夜はスポーツジムで汗を流しジャグジーに浸る、などということをしています。ちょっとしたお金や時間を費やすことで楽しみながらモチベーションが保てるのです。頭の中で描くだけでなく、言葉にし、行動してみることが大切でしょう。
最初の思考を大切に
みなさんよくご存じの有名な言葉に
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから
というものがありますが、これを逆に利用すればいいのです。そのためにはまずは正しい思考が必要です。
その正しい思考を導くもの、それが「セルフイメージを作る」ことなのです。
一人の女性を愛した画家 - ピエール・ボナール
画家というとどうしてもモテモテで、何人もの女性との関りに目がいってします。女性という美の象徴からインスピレーションを得ている、ともいえるが、もう少しどうなないものかという気もしている。
その中でピエール・ボナールはマルタという一人の女性を愛したという点で異色であろう。とにかく彼の作品にはマルタをモデルとした絵画がたくさんある。ただし、実際にはマルタと同棲中に一度浮気している。マルタはその浮気を責め、結局この事件の後ボナールとマルタは結婚している。その後浮気相手の女性は自殺している。
女性の自殺と言えばピカソもそうだ。ピカソの死後、2人の女性が自殺している。この画家に対する女性の想いの強さはなんなんだろう。いったいどれほどの魅力が画家にあるのだろう。
まあ、そんなことはいい。全ての偏見を取り除いて純粋に絵を楽しもう。現在国立新美術館でピエール・ボナール展。微妙に画風が変わっている様子が面白い。印象派特有の絵に動きを感じる。距離を置いてみれば見るほど味が出てくるのも印象派の特徴だろう。
その中でも一番心を動かされたのは展示の最後にあった「花咲くアーモンドの木」だ。
距離をおいてみるとアーモンドの花が浮き上がって見えるのだ。とても不思議な体験を味わえる。こういうのはネットや印刷物で見ても分からない。
実際にそこに存在するものとして絵を鑑賞するのは全く異次元の体験だ。是非、美術館を訪れて実際の絵を見てほしい。
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問題の本質とは
問題の本質を捉えるのが苦手な人がいる。それには大きく2つのタイプに分けられる。
1. そもそも問題自体を理解で来ていない人
2. 問題の本質を勘違いしている人
やっかいなのは1では無く2のタイプである。
問題には切り口によって本質が変わるケースが良くある。ある出来事を政治の問題ととらえるか、経済の問題を捉えるか、技術の問題ととらえるか、それによって問題の本質は変わってくる。もちろんそれらが微妙に影響を与えている場合もあるが、少なくとも議論の場ではそれを区別すべきだ。
ある切り口で議論をしている最中に別な切り口で割り込んで問題の本質を別な方向に持っていくことを平気でする人間が上の2に相当する厄介な人間だ。中途半端に頭が良いが全体を俯瞰することのできない人間にこのタイプが多い。
この手のタイプの人間が割り込んできたときには問題の本質は何が何やら分からなくなり生産的な議論は成り立たない。早々に退散することをお勧めしたい。
またこのようなタイプの人間とはできるだけ関わらず距離を置くことだ。
止める能力・捨てる能力
自由と何か? この問いに「自由とは止める権利」である、と断じた人がいた。これを聞いた時とても納得したものである。自由というと何でもできる権利を考えるが、実際には止めることができないことで次に進めないことが多い。
今の仕事が止められない
今の恋愛が止められない
今の食生活が止められない
今やっているネットワークゲームが止められない
浪費が止められない
自分の本当にやりたい仕事、真に愛される恋愛、健康的な生活、有効な時間活用、金銭的な余裕、これら人生に豊かに働く要素を阻害しているのはまさしくこの「止められない」ことに依存している。「止める能力」は我々の幸福にとってとても重要である。
同様に「捨てる能力」も重要であろう。物を捨てることの重要性は昨今のはやりであるから周知であろうが、そのほかにも色々な選択肢から一つを決定する場合、この「捨てる能力」はとても大切になる。
「捨てる能力」が無いと、一つに決定できない。決定できないから前に進めない。迷いに迷ってただ時間が過ぎていく。チャンスを逃す人の多くは「捨てる能力」が無い。
「自由に決断を下せる」人間に必須な能力、それは「止める能力」と「捨てる能力」である。