風の旅人 - さすらい人のつぶやき

スナフキンのように飄々と生きています

裏を見せ・・・

 

「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」


良寛が最後に読んだ歌とされています。死期の迫った良寛を見舞った貞心尼への最後の言葉だとも言われています。この歌の素晴らしさは何といっても舞いながら散っている紅葉の情景の美しさを生き生きと表していることでしょう。それと同時にふと不思議に思うのはなぜ「裏を見せ」と裏から言葉が始まるのか、ということです。表ではなく裏というところに何かしらの奥ゆかしさを感じるという向きもあるが、何かそこには特別な意味でも込められているのだろうか、とふと考えさせられました。

 

六義園の夜の紅葉


先日六義園でライトアップされた紅葉を見てきました。インターネットで見る一見派手な演出とは異なり実際のライトアップはかなり控えめでショーアップされたものではなく、むしろ夜の闇の中に浮かび上がる紅葉をたのしむ、そういう演出がなされていました。わびさびを楽しみましょう、そういう意図が強く感じられるものでした。
当日は土曜ということで入り口には数十人ほど並んではいましたが、誘導がスムーズに行われたせいか十数分ほどで中に入ることができました。そのまま順路に従って進みましたが、それはもう暗闇に近い状態でもし周りの多くの人がいなければキャンプの肝試しか、と思われるほどでした。十メートル先に見えるライトを目指し前に進みますが、そのライトも控えめで淡く照らすといったものでした。

 

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紅葉の何を見ているか


自然のままの夜の紅葉を楽しむことができた、そう感じました。そして同時にあることに気づきます。ライトはほぼ下からあてられています。私たちはそれを下から見ます。そう、紅葉の葉を下から見上げるのです。遠方からの写真ではほぼ横から角度で紅葉が見えます。最近ではドローンを使って上からの紅葉を見ることができます。ですが、実際に紅葉を鑑賞するとなると、下から見上げることになり紅葉を葉の裏を必然的に見ることになります。「紅葉は葉の裏が美しい」そう言った芸術家もいたそうです。この葉の裏を楽しむ姿勢に日本人のわびさびを感じた瞬間でした。

 

再び良寛の歌を


そう良寛の歌が「裏を見せ」から始まるのは、私たちが自然に紅葉を見るときには必然のことなのです。紅葉はいつも渡したに裏を向けています。そしてはじめはその裏を見せながら落ち、回りながらときには表を見せながら散っていくのです。いつもは裏を見せ、散るときにはじめて表を見せる、しかもほんの一瞬まわりながら落ちながら見せる、この奥ゆかしい紅葉のあり方は、空庵を転々とし質素な生活をつづけた良寛その人の生きざまを見せているともいえるでしょう。

 

自分の目で見、体で感じることの大切さ


私たちは技術の発展のおかげで家に居ながらにして写真や動画で美しい光景を見ることができます。しかし今回の私の経験のように実際に現場に出かけ、自分の目で見ることによってはじめて気づき感じられることがあることを胸に刻んでおくことが必要です。六義園の園内はそれなりに人で混み合っていました。ゆっくりとしかし流れるように前に進めば、多少の混雑はあってもストレスなく鑑賞できるはずでした。実際には一部の人たちのせいでかなり混雑が生じました。それはスマホをとるために立ち止まる人たちによるものです。彼らは自分の目で見ることを放棄しているように思えました。長く立ち止まり何枚もスマホで写真をとり、撮り終えるとさっさと歩き始める。そしてまた写真映えする場所で立ち止まる、その繰り返しなのです。彼らの目には実際の紅葉の美しさは映ったのでしょうか。紅葉の葉の裏がこんなにも美しいこと見ることができたのでしょうか。裏を見せながら落ちる紅葉のはかなさに気づき、そこに儚さを感じることができたのでしょうか。
とても残念な気がしました。

 

最後に


前回そして今回出向いた小石川後楽園六義園のような大名庭園は偶然残ったものではありません。「残す」という意思のもと多大な資金と多くの人の努力によって保たれたものです。鏡のような池の水面に移る景色はとても素晴らしいものでした。しかしこの透き通った池を保ったためにそうとうの浄化設備が整えられているはずです。そういう見えない裏の準備によって昔と同じような美しい景色を私たちは見ることができるのです。
都会のど真ん中には数多くの大名庭園があります。こんな恵まれた環境があるでしょうか。ぜひ一度身近の大名庭園に出かけ、自然の美しさを自分の目で見、自分の体で感じてみてはいかがでしょう。