風の旅人 - さすらい人のつぶやき

スナフキンのように飄々と生きています

プラトンとは何者か?

哲学者といえば必ずと言っていいほど名前が出てくるプラトン。ご存知の通りプラトンは多くの哲学書を書いている。だが、そのほとんどがソクラテスの対話について書いたものであり、プラトン自身が出てくることはほとんどない。対話の相手にすらなっていない。改めて考えると不思議なことが多い。一体プラトンとは何者なのであろうか。

 

プラトンの対話篇


プラトンの著作は現在の凝っているもので36作品あると言われている。その中にはプラトン以外の著作も紛れ込んでいるとも言われていますが、それでも30前後はプラトン自身が書いたものだとされている。これら対話篇には次の5つの特徴がある。

 

  1. ソクラテスというメインキャラクターが登場する。対話の相手は一人のときもあれば複数人のときmこある。
  2. 時間、場所、語り手が設定されており、登場人物も実在の人物であり、将軍、ソフィストから若者までバリエーションに富んでいる。
  3. アテナイの日常的な場所が舞台になっている。
  4. 日常的な話し言葉で問いと答えのやり取りが行われている。ソクラテスの演説やスピーチといったものではない。
  5. プラトン自身が登場しない(わずか3回だけ、しかもプラトンが話すのではなく、単に会話の中で言及されているだけ)。

 

簡単に言うと、明確に状況が説明された(したがって現実に起きた物語として)アテナイの日常的な場所で、ソクラテスが実在の人物と日常的な言葉で会話をしている。それをプラトンがその会話に参加することが一切なく、記録したもの、ということができる。
最も不思議なのはプラトンがほとんど出ておらず、ましてやプラトン自身が自分の意見を述べている場面が一切ないことである。要するにプラトンは自身の言葉として自分の考えを一切述べることはしていないのである。

だがしかし私たちはプラトンの作品を通じて得られた哲学を「ソクラテス哲学」とは言わず、「プラトン哲学」と呼ぶ。一体それは何故なのだろうか。

 

対話篇におけるソクラテスの存在


まずプラトンの対話篇について重要となるソクラテスの存在について考えてみる。西洋哲学を専門とする東京大学納富信留教授によるとプラトンの対話篇に出てくるソクラテスに関して二つの誤解がなされているという。

1つ目の誤解は、プラトンソクラテスが実際に行った会話を忠実に再現、報告している、というものである。2つ目の誤解は、プラトンが自分の考えをソクラテスに代弁させているというものです。納富教授はいずれも貧困な解釈だという考えを示している。

納富氏はプラトンの対話篇に出てくるソクラテスは、プラトンの想像によつ産物だという。すなわち、プラトンは生前の対話を通じて知りえたソクラテスをもとに、ソクラテスだったらこの問題をどう考えるだろうか、あるいはソクラテスだったらこういう質問に対してどうこたえるだろうか、ということを自分の心の中で想像しながら作っている、ということである。確かに対話篇を読んでみると、プラトンはむしろソクラテスの立ち場というよりもソクラテスの対話相手の立場に近いのではないか、と思われる場面もいくつかあります。

ソクラテスの死後、ソクラテスに関しての著作が200近く書かれたといいます。プラトンは、ソクラテスの影響を受けた人たちが互いの哲学思想を対抗させながら作っていく過程の中で、自分の心の中にあるソクラテスを対話という形で表現したとみることができるのである。

 

ソクラテスの不知の自覚


ご存知のようにソクラテスは対話を通していろいろな思想を伝えてはいますが、何も書かなかった。要するに自分の思想・哲学を何も残さなかったのだ。あるのはプラトンの対話篇のみですが、この中でソクラテスは一体何を残したのだろうか。

プラトンの対話篇に書かれている中で、ソクラテスは特定の問題についてたまたま出会った相手と議論をする。例えば、正義について、あるいは勇気について。その中でもソクラテスは「私はこう思います」とか「私の理論はこうです」といったことを決して話さない。「私はよくわからないので、あなたの考えを聞かせてください」というだけなのだ。例えばラケスとニキアスという二人の人物相手との「勇気とは何か」という問いは典型的である。二人は百戦錬磨の将軍でソクラテスの問いに対し「勇気とは線上でととどまって逃げないことだ」と答る。それに対して、ソクラテスは「でも、時と場合によっては撤退することも勇気ではないですか」とツッコミを入れる。決して自分の意見を言うのではなく、相手の意見を深堀しようとするのである。こういうやりとりの末行きつくのは、最終的にわからなくなった、あるいはよくわかっていなかった、という結論になる。

 

プラトンの対話篇の持つ意味


要するにソクラテスの議論の先は、何かを知る、ことではなく、これ以上進めないという意味を持つギリシア語の「アポリアー」という状態である。すなわちプラトンの対話篇から知識を得たり、何か有益なスキルを得たりすることはできないのである。
数年前にマイケルサンデル教授による「正義とはなにか」という講義がNHK「白熱居室」シリーズの中で放映されたことを覚えている人も多いだろう。その中でも「正義とは何か」という問いへの回答はなかった。あるのはいろいろな質問に対し、生徒同士による真向から対立する意見のぶつかりあいであった。そしてその意見のぶつかり合いの中から互いの意見を深め、より良い自分を考える、そういう方向性が感じられたものだ。サンデル教授自身も「このような異なる意見をぶつけ合う議論を日常的に行い、考えることによって、自分の生きる姿勢を見つめ、そしてよりよいものにすることが重要だ」といった趣旨のことを述べていたように思う。

プラトンの対話篇もそのような位置づけなのだろう。そこから知識や知恵を得る、というものではなく、ソクラテスという哲学者をメインとした会話を通して、我々がいかにその問題を問うものと問われるもの立場に立脚しながら考えていくか、その思考方法にこそ意味があるのだと思う。プラトンとは哲学や思想そのものを我々に提示したのではなく、哲学や思想にどう向き合い考えるのかその方法論を提示してくれた人物であると思うのである。